ライフスタイルは買えるのか

アマチュア旅人。ライフスタイル研究家。しがない会社員27歳♂。日々が豊かになるマインドセットやチップスをポストしていきます。

【Trip/India】豊かさとコミュニケーションの真諦

 about Trip…

Life is Journey。旅は人生の縮図である。旅は我々に空間性を取り戻させてくれる。旅は都市生活に埋もれた感性を呼び覚ます。健全なマインドと豊かな人生のために、定期的に旅に出よう。
 
 
 * * * * * 
 
 

インドを旅したとき、一人の男性に出会った。

 

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彼の名前はシアさん。
トゥクトゥクドライバー。

 

僕は、彼のことが大好きだ。

 

できることなら、シアさんのように、生業を作れたらなと思う。

 
 
 * * * * * 
 
 

シアさんと出会ったのは、とあるホテルの正門だった。
外国人が宿泊できるホテルは高級ホテルに位置付けられ、外へ出ようとすれば、まるで有名人の出待ちかのようにタクシー運転手たちに囲まれる。

 

例によって価格交渉に入るのだが、足元を見られ、交渉は難航。
そんな中、「ひゃくごじゅう」と日本語で数字を提案してきたのがシアさんだった。

 

インドでは「日本語で話かけてくるインド人=危険者」というのが日本人旅行者の中では常識である。

(例えば、「葉っぱ、いる?」などと聞かれたりするわけである!)
 

なのに、なぜかこの時は彼に着いていこうと思った。

上手く説明できないけど、なにか惹かれるものがあったんだと思う。
 
それから3日間、名前も知らないまま(いや、聞けよって話はおいておいて!)、僕はシアさんとバラナシを回った。

名前も言わないくらい、シアさんは、必要以上に多くを語ったりしない。
そんなシアさんが繰り返し言っていたことがある。

 
「君たちはとてもいい人たちだ。君たちと僕は、互いにリスペクトしている。僕にとっての最高のゲストに、僕の生まれたこの土地の良いところを見て回ってほしいのだ」と。
 
シアさんは、僕が聞けば一般的な観光コースを紹介してくれるものの、極めて僕らの意向を尊重した。
前回書いたが、無類のツアー旅行嫌いな自分がガイドをつけるなんて極めて稀なことである。笑
シアさんは観光地に着くと、こう言う。
「さあ、行っておいで」。
 
対して、多くのドライバーは、こう言う。
「ここに1時までに戻って来いよ。遅れたら30分ごとに○○ルピーだ。」
 
シアさんは、ときには2時間でも待ってくれた。そして戻ると笑顔で出迎え、こう言うのである。
「おかえり。もう十分かい?次はどこに行こうか?」
 
勝手にいらん営業をし始め、自分の知ってる観光地をとにかく回らせて少しでも多くのお金を落とさせようとする他のガイドとはえらい違いだ。
 
そんなシアさんの、我々の意向を尊重する姿勢に惚れ込み、こちらからガイドを依頼したのである。
 
 
 * * * * * 
 
 

シアさんが案内してくれたお店に行ったときのことである。
店にあった、ルドラクシャという菩提樹の実でできたネックレスに僕が興味を示すと、店主は値段を告げてきた。


結構高価で、僕はそういうものなのかなあと思い、品物を戻した。
するとシアさんは、それまでずっと店主とともに英語で商品の説明をしてくれていたのに、突然語気を強めてヒンドゥー語で店主と話しはじめた。

 

次の目的地で観光を終えて戻って来ると、シアさんは笑顔で僕らを出迎えた。
そして、なんとプレゼントだと言って、ルドラクシャのネックレスを手渡してくれた。


話を聞くと、さっきの店ではだいぶ吹っかけられていたらしい。
シアさんは相場を知っているから、ヒンドゥー語で店主に怒っていたのだ。
そして、「自分が紹介した店で君たちをあんな目に遭わせてしまい、申し訳ない」と僕らに謝った。
シアさんにとって、僕たちは本当にゲストなんだなと思った。その想いが、とても嬉しかった。

 
 
 * * * * * 
 
 

お金に関して、会った初日こそは運賃を払ったものの、シアさんは一切口に出してこなかった。

 

シアさんは、レストランに案内してくれた後、気がつくと店内にいないことがあった。現地の人には高い店だったんだと思う。


それにも関わらず、さっきのプレゼントや、僕たちが大喜びしたチャイをさっと出してくれたり、惜しみもなく僕らをもてなした。
ほぼ一日中移動してくれたし、バラナシを端から端まで周った。ガソリン代もかなりかかったと思う。

 

2日目の別れ際も「明日の朝は何時にする?」で終わり。
とうとう、最終日、空港でお別れするそのときでさえも、シアさんはお金のことを自分から何も言わなかった。

 

異国の地からやってきた僕たちに良い思い出を残してもらおうと、全部純粋にやってくれたことなんだと思う。

 

人への感謝に胸を打たれた。

 
僕は、キャッシュをあんまり持ってなかったんだけど、有り金のほとんど全部をシアさんに渡した。
 

金額じゃないことはわかっているけど、もっともっと渡したかった。
僕は、こんなに美しいお金の使い方を他に知らないからだ。

 

自分が心から良いと思ったことを提供して、気持ちとしてお金を受け取る。
お金を支払った側の僕が言うと偉そうに聞こえてしまうかもしれないけど、これ以上なく素晴らしいことだと、純粋に思う。

 
そんなことができるシアさんを、羨ましくも思う。
きっと今日も、また誰かの思い出を創っているんだろう。
 
シアさんには3人のお子さんがいる。
きちんとした教育を受けさせるために私立の学校に通わせているらしい。決して裕福ではない。
それなのに、どうして見ず知らずの日本人を、こんなにも惜しみなくもてなしてくれるのだろう。
 
僕はまだまだシアさんのようにはなれない。
心の余裕が、少なくとも経済的余裕には結びついているし、
不安とか妄想とか、くだらないことにいつだって煩わされているからだ。
 
これ以上に気高い精神があるだろうか。
自分がどんな状況であろうと、人に与えられる人間。
シアさんにはなんにも敵わない。
 
経済的な豊かさと精神的豊かさは全く関係ない。

現代では、「豊かさ=経済的なこと」が第一義として当たり前となっているが、本当に大事なのは、そっちじゃない。

 

残念ながらモロッコでは、貧しいが故に精神的に欠乏した人と会うことが幾度とあった。
非常に不快感な思いもした。
来る日も来る日も観光客を値踏みして生きていたら、そうなるのも仕方ないとは思う。

 

 

やはり、インドはブッダの国なのだ。
 
 
 * * * * * 
 
インドのことを悪く言う人は多い。
確かに海千山千だとは思う。

あと、暑いし、埃だらけだし、いろんな臭いがするし、人が多いし、やたらと広いし、出歩くだけで間違いなく疲弊する。
 
そう、行ったことのある人が回想するとみんなこうなると思うんだけど、環境をありのままに切り取ったらインドなんてストレッサーしかないのだ!笑
 
でも、僕は、常に口角を上げてインドを回れた。

あの国で起こることは、アンタッチャブルだけどどれも現実だし、そのことに期待や不満なんて抱いてられない。
ただただリアルなだけ。それを受け入れる以外に選択肢なんかない。
意固地になって自分のルールでインドを眺めようとするのは愚の骨頂だ。
 
郷に入れば郷に従え、まさにその通りなのである。
それが楽しい。
なんていうか、自分の殻を取り払う訓練みたいなのができる。
 
何より、彼らは、いい人たちばかりだ。

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屈託なく笑い、底抜けに無邪気。
だから、言葉がわからなくても、まるで子供が仲良くなるようなプロセスで僕に接してきてくれる。
 
言葉なんて、いらないんだ。
 
 * * * * * 
 
 
誤解を恐れずに言い切れば、インドで騙される人は、現代社会に飼い慣らされすぎていたのではないだろうか。機微を捉える力が弱まり、色付く前の物事を見ることができなくなっているのではないだろうか。
 
Google検索が吐き出す答えや、社会が過剰に発信している「正解」に頼っていたら、ますますそうなっていくかもしれない。
 

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 * * * * * 

 
旅をして思うのは、振り返ったときに頭に浮かんでくるのは出会った「人」のことなんだということ。
 
自分が旅に求めているのは、「ロケーション」ではなくて、「人」なのかもしれない。
 
それはGoogle検索のなかには存在し得ないものだ。
 

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(シアさんからもらった思い出のルドラクシャのネックレス)

禅とモードとアドラーと宇多田ヒカル

◼︎見えている世界とマインドセット

 自分が見ている世界は、他の誰でもない自分が作り出しているものである。同じ現象が起きたとしても、捉え方は人それぞれ違う。現象を受け止めて、どのように処理するかは個人のフィルター次第だ。
 
 と、至極当たり前のことを書いてみた。さて、だったら幸せな人の考え方を自分のものとして取り込んでいったほうが間違いなく良いライフスタイルに近づけるんじゃないだろうか、僕が理想に据えるマインドはどんなものか、というのが本日のエントリー内容である。
 
 世の中には、まるで別次元で物事を捉えている人がいる。彼らと僕の違いは何か。事象を処理する個々人のフィルターは、きっと今までの人生で気付かずに創られてきたもので、多くは幼少期の家族のやり方がベースなんじゃないかと思う。彼らとはそういった当たり前の前提が大きく違うのだ。よりゴキゲンに生きるために、自分のデフォルトを書き換えていく必要がある。
 
 そうしたデフォルトの変更パッチは、外で『買える』ものじゃないけど(そう思い込んでるイマイチな人々が自己啓発本のコーナーを潤わせているのだ!)、きっかけをくれるものはたくさん転がっている。それをそのまま正解としてマネするのではなく、あくまで内的な処理を経て自分のマインドセットに組み込んでいくことが大切だと思う。
 
 
 

◼︎真理のオーバーラップ

 物事の真理というものは、それがまがいものかどうか見極めるのが非常に難しいものの一つであるが、判断の切り口として「より多くの場所で目にすることかどうか」が確実だと僕は思う。
 
 太古の地球では、分断され交流もなかったはずの世界各地で、同時多発的に文明が誕生した。考えてみるとなかなか不思議なことではあるが、人類が生きていると、生活の知恵を体系化していく運びになることが自然なのだろう。そう考えると、人類は皆本質的にクリエイティブだということが真理として浮かび上がる(ちょっと話は逸れるが、アウストラロピテクスだけが幸せについて考えることができたため生存できたという研究報告もあるらしい!)。こうした同時多発的な事象は、数を担保として、最も真理に近いと判断できる。誤解を恐れずに言えば、真理とされるものの見方とは、様々な思考や哲学にオーバーラップしている思考体系や事象のことである。
 
 
 

◼︎西洋のアドラーと東洋の禅

 2015年のベストセラーに<嫌われる勇気>という本がある。本書は、そのタイトルからは少々分かりにくいが、アドラーというオーストリアの心理学者の思想について書かれたものである。現代社会には目眩ましが多いせいで視点として失いがちだけど、人間が本来生きていく中で追求すべきことー”どうすれば幸福になれるのか”ーに対する考察を、対話形式で深化していく。  

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

 もう一冊、我々日本人により馴染みの深い思想として、禅の本を紹介しよう。

 

禅マインド ビギナーズ・マインド (サンガ新書)

禅マインド ビギナーズ・マインド (サンガ新書)

 

 

米国で禅を説いた日本人・鈴木俊隆老師の説法をまとめた一冊。原書は英文で書かれ、逆輸入的に日本に入ってきた書籍である。故スティーブジョブズの愛読書として有名で、Amazonの商品説明ではこの点を推しすぎじゃないかと思う(青春時代にジョブズが貪り読んだ!って笑)。そんな世間に媚びた売り方をする必要は全くないと思えるぐらい、禅の入門書として素晴らしい内容の一冊である。
 
 この2冊を見比べて、個人的に多くの共通点を感じることができた。双方より数カ所引用させていただき、そこにオーバーラップする真理を浮き彫りにしてみたいと思う。以下は、各書籍からの引用であり、対になるように抜き出している。
 
<禅マインドビギナーズマインド>
一番大事なのは、今、ここであって、いつか来る未来の一日ではないのです。私たちは、今、ここに努力を払います。修行においては、このことが一番大切なのです。【p.202】
真剣に、そして一瞬一瞬にベストをつくせば、それで十分です。私たちの修行のほかには、涅槃(ニルヴァーナ)はありません。【p.87】

 

<嫌われる勇気>
線のように映る生は点の連続であり、すなわち人生とは、連続する刹那なのです。(中略)我々の生とは、刹那のなかにしか存在しないのです。【p.265】
人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないことです。【p.275】
 
 
<禅マインドビギナーズマインド>
禅の修行で一番大事なことは、「二つ」にならない、ということなのです。(中略)いろいろなことを分け隔てすると、あなたは自分で自分の限界をつくってしまいます。【p.32】
座禅の姿勢についてお話します。(中略)足を組むと、二本の足があっても、右足と左足が一つになります。この姿勢は、二つではない、一つでもない、という「二元」性の「一者」性を表しています。(中略)私たちの心と身体は、二つでありながら一つ、なのです。【p.38】
 
<嫌われる勇気>
アドラーの名付けた「個人心理学」(中略)のことを英語では、「individual psychology」といいます。(中略)要するに、これ以上分けられない最小単位だということです。アドラーは、精神と身体を分けて考えること、理性と感情を分けて考えること、そして意識を無意識を分けて考えることなど、あらゆる二元論的価値観に反対しました。(中略)心と身体は一体のものだ、これ以上分割することのできないひとつの「全体」なのだ、と考えるわけです。【p.175-176】
 
 
<禅マインドビギナーズマインド>
二元的な考えを捨ててしまうと、すべてがあなたの師となり、すべてが尊敬の対象になるのです。(中略)ときには師は弟子に対して礼をし、弟子は師に対して礼をします。弟子に対して礼をしない師は、ブッダに対してもできません。(中略)大いなる心の中では、一切が平等です。【p.81-82】
 
<嫌われる勇気>
他者との間に違いがあることは積極的に認めましょう。しかし、われわれは「同じではないけれど対等」なのいです。【p.92】
人間は自らのライフスタイルを臨機応変に使い分けられるほど器用な存在ではありません。要は「この人とは対等に」「こっちの人とは上下関係で」とはならないのです。(中略)もしあなたが誰かひとりでも縦の関係を築いているとしたら、あなたは自分でも気づかないうちに、あらゆる対人関係を「縦」で捉えているのです。【p.214】
 
 
<禅マインドビギナーズマインド>
仏教では、この世界の外になにかを期待するのは、異端の見方です。自分自身の外に、何かを探し求めようとはしないのです。【p.208】
 
<嫌われる勇気>
答えとは、誰かに教えてもらうものではなく、自らの手で導き出していくべきものです。他者から与えられた答えはしょせん対処療法にすぎず、なんの価値もありません。【p.40】
 
 いかがでしょうか。根底に通ずる点を感じていただけたかと思う。この二つの思想にオーバーラップするものは、人間の心の在り方の理想の一つではないでしょうか。
 
 
 

◼︎宇多田ヒカル

 真理のオーバーラップというところでは、僕は宇多田ヒカルに禅的なものを強く感じている。彼女の語録を、いくつか引いてみたいと思う。
 
■9歳の時、怒りとか不満といった感情が完全になくなっていることに気づいた。外界になにも求めなくなっていた。(私の求める救済はそこにはないんじゃないかな・・・。)(中略)自分の内側の世界のほうが大事だった。そこには自由があった。想像と思考は無限で、最強だと思った。
宇多田ヒカル 点 -ten- p.7-8】
 
どこか遠くへ 逃げたら楽になるのかな そんなわけ無いよね どこにいたって 私は私なんだから
【Wait & See 〜リスク〜(2001) のリリックより】
 
いつも、全部でありたい、と思って生きてきた。(中略)全部でありたい、という気持ちは、「自分を定義する」ことの逆なのかもしれない。「私は女だ、東京に住んでいる、若者だ、これが好きだ、あれが嫌いだ、こうされたい、これは怖い」といった自己定義は、ただ自己を制約するものを羅列するだけのように思える。(中略)すでに自分はこの世界の一部なのだから、万物と共感、融合することは、決して自己の喪失ではない。
宇多田ヒカル 点 -ten- p.22-23】
 
ファンクラブがないこと。なぜかというと”私のファン”として固定ファンになってもらうことを望んでないんですね。今、好きでいてもらっても、これから私のやる音楽は変わるかもしれない。「絶対好きでいて!」とかじゃなく、それぞれが今回の曲は好きとか、今回の曲はそうでもないとか、確認してもらうほうがいい。
oricon style (2007年7月30日号)の特集「音楽ファン2万人に聞いた好きなアーティストランキング」より】
 
極めつけは、自著の帯にあるこの言葉。
 

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 10代にしてあらゆる体験を怒涛のように経験してしまった彼女自身が、ある種の探求者だからであろうか。その境地には禅が映る。
 
 さて、禅のオーバーラップを挙げていくとここのスペースでは終わらないので、(なんで数ある例から宇多田ヒカルを取り上げたのかって、祝ヒッキー活動再開!)、禅の話に立ち返りたいと思う。

 

点―ten―

点―ten―

 

 

 
 

◼︎モードの定義とクールなマインド

 僕は禅に心惹かれている。思うに、すべての自己啓発本は禅の演繹と言えるのではないだろうか。これほどまでに体系化された思考が大昔に生まれ、現代でも通用するというのは驚くべきことだ。まだまだワナビーだけど、僕のマインドセットの中心は禅である。
 
 禅が肯定する「変わり続けること」。これを人生の指標にしたいのだけど、これをもっと言い得た言葉がある。「モード」という言葉だ。
 
 多くの人は、モードという言葉に関して、ファッションの用語だろうな程度の認識だと思う。僕も正確な語義を知らぬ間に使っていた(なんとなく黒くて、抽象的で特異的なものを指すファッションのジャンル?みたいな)。ある一冊の本を読んだとき、そこでなされている定義が新鮮だったので、ご紹介しよう。

 

ちぐはぐな身体―ファッションって何? (ちくま文庫)

ちぐはぐな身体―ファッションって何? (ちくま文庫)

 

 

 思想家ロラン・バルトの著書からの引用によると、『「モード」とは無秩序に変えられるためにある秩序』であるとし、みずからせっかく豪奢につくり上げた意味を裏切ることを唯一の目的とする意味体系』という”贅沢な逆説”のたくらみと表現されている。
 
 つまり、「モード」とは、テキストになった瞬間に滅ぶワードなのである。”モード”と表現された瞬間、それは世間一般のモードという記号認識の中に取り込まれた”非モード”と化す。よくファッションの表現に用いられるモード”っぽさ”という風味の演出は、その出発点からして既に形骸で、本質的ではないのだ
 
 通念を飛び抜けたコンテンポラリーな空間、そこだけが本質的に「モード」たり得るのである。著者の表現を借りると、”モードという制度の中で、どのモードよりも速くモードを変換し、どのモードよりも速くそれを突き抜けること”、これは刹那を生きる禅の精神そのものだ。
 
 
 

■最後に

 僕は、各人が自分が良いと思ったことをリミックスした、”自分の宗教”みたいなものを持って生きることはとてもいいことだと思う。そんな思いもあり、最近影響を受けたものをつらつら並べる形でご紹介してみました。読みにくさや学術的な誤りはご愛嬌というところでご容赦いただければと思う。(なんてったってこれは僕の宗教だから、反証可能性はなくてもいいのだ!笑)
 
 誰かに人生を奪われないために、自分の意思で選び取り勇気をもって変わり続ける。逆説的であるが、変わり続けることで、いつも変わらずに”いまここの自分”を獲得し発信し続ける。自分の中のエッジに立ち続けるモードな生活、デフォルトを更新し続ける生活、いっしょに追い求めていきませんか?

アマチュア旅行家の旅行技法

about Trip…

Life is Journey。旅は人生の縮図である。旅は我々に空間性を取り戻させてくれる。旅は都市生活に埋もれた感性を呼び覚ます。健全なマインドと豊かな人生のために、定期的に旅に出よう。
 
 
 

■アイ アム ア ”アンチ・スタンプラリー・ツーリスト”

 人より多少なりとも多くの旅を経験した身として、自分のトリップ論を書きたいと思う。
 
 まず、僕の考える理想の旅とは何か。一言で表すとすれば、『その土地を、暮らしに行くように訪ねること』だ。だから、何かを見に行くことを目的とした旅には違和感を感じる。僕の初めての海外旅行はパリへの一人旅だったのだけど、モンサンミッシェルルーブルも行っていない。ひたすらセーヌ川に沿って歩き、カフェと蚤の市を堪能した。恥ずかしながら、これが当時イメージしたパリジャンの暮らしだった訳だ。この旅のスタイルは、今も昔も変わらない僕の理想なのである。
 
 いま最も勢いのあるジャパンブランド<mame>のデザイナー黒河内真依子さん(<sacai>の阿部千登勢さんといい、もう名前が既にデザイナーですよね!)にとって、旅は自身のクリエイションに欠かせないもののようである。旅について、誌面で次のように語っている*。旅そのものが目的になることはなく、海外への旅も東京にいることも同じである、と。そのうえで、自分が東京にいるときと同じテンションでいられることが、洋服をデザインする上で大切にしていることだそうだ。この感覚こそが<mame>が時流の中心にいる所以でありパワーなのだなと感じた。恐れ多くも、ちょうど自分の考えていることがそのまま書かれているような感覚を覚えた。*:Them Magazin Issue No.010 (2016.06)
 
 僕は、自分が普段していないようなことを、旅先だけでするというのは非常にダサい行為だと思うのだ(自分の世界を広げてくれるきっかけ、という意味では肯定的に思うけど)。だから、普段美術館なんて行かいないのに「有名だから」という理由で旅先では覗いてみるっていうのはちょっとズレてるし、住んでいる街を遊び尽くしていないのに旅行ばかり行っているのも違うと思うのだ。東京在住の方、あなたは世界に誇れる大都市Tokyoをきちんと楽しんでますか?新宿御苑両国国技館ホテルオークラ東京には行ったことがありますか?
 
 つまり、本質的に日常と非日常なんてものはなくて、そんな別け隔ての上に立つ旅は、ただ自分のバイアスを確認する作業でしかない。住んでいる街だって旅先と同じ目線で捉えて、きちんと”観光”すればいいじゃん、と僕は思う。これがいくつかの旅を経験したうえで到った考え方だ(もちろん人並みにミーハーでしたよ!笑)。
 
 そんな僕には、ツアー旅行に対して並々ならぬ嫌悪感がある。なぜなら、ツアー旅行は人が決めた名所(とされているところ)を巡るスタンプラリーにしか思えないからだ。より多く、より有名な場所を周るだけ。そこに参加者の感情は内在しないし、また生まれるような場面も非常に少ないだろう。Life is Journeyという表現があるように、旅は人生のロールプレイに例えられる。旅程すら自分の意志で能動的に決められなくて、どんな人生を生きていくんですか??流され続けるんですか?というのが僕の想いである。忙しくてお前みたいに計画している暇なんてないって?そんな人は旅行なんてしてないで家で寝てたほうがいいんじゃないかな?煽りでもなんでもなく。
 
 そんなわけで、無類のツアー嫌いのアマチュア旅行家が実践する旅の計画方法、ご紹介します。今回は、直近僕が行ったモロッコ旅行を具体例として、各プロセスにて紹介していきます。
 
 
 

■Step1:旅先のイメージをスクリーニングする

 映画を最も楽しむ方法は、予告編を観ずに、最高にワクワクした状態で映画館へ行くことだ。同じように、旅を楽しむためには、知り過ぎないことが重要だと思う。特に、テキストで頭に入ってきたものには、すでに「(一般的な)楽しみ方」がおまけで付いてきてしまう。映画のレビューには「ネタばれ」の警告があるのに、旅のガイドブックには何もないのは不思議なことだと思う。
 
 では、どうすれば過剰な情報の侵略から自分を守れるのか。そこで僕は、画像を眺める、という方法を提唱したい。テキストからではなく、画像から旅のイメージを膨らますのだ。例えば、写真の綺麗なガイドブックを買ってきて、テキストは無視して写真だけをパラパラと眺める。あるいは、Flickrの検索窓に行きたい地名を入力すれば、腕自慢の名も無き写真家たちが切り取った魅力が一面に広がる。

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(Flickerは無料のオンライン写真共有サイト)
 
 そうして膨らんできたイメージから、自分がやりたいことをリストアップしていく。「砂漠でラクダに乗るのは楽しそうだな」とか「青の街きれいだな〜散策してみたい」といった具合だ。
 
 やり方はなんでも良いが、僕は頭の中を整理するときは、MacアプリのTree2を使っている。マインドマップアプリなのだが、横にだけ伸びていくシンプルさが気に入っている。参考までに。
 

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(気になったものを片っ端からリストアップしていく)
Tree 2

Tree 2

  • Top of Tree
  • 仕事効率化
  • ¥1,400
 
 
 

■Step2:イメージを実現できる場所を知る

 さて、自由気ままにワクワクする時間はここまでで、ここからは計画という若干めんどくさいフェーズに入る。まずは、Step1で挙げたやりたいことがどこでできるのか調べる。ガンガンGoogle検索していく。「モロッコ 砂漠 ラクダ乗り」みたいな具合だ。写真と別にもう一度調べることで二度手間に感じるかもしれないけど、僕にとってはテキストから入らないということのほうがプライオリティが上なのだ。そのほうが純粋に自分がやりたかったことから道が逸れないし、ワクワクの熱量を保てると信じている
 
 また、厳格なルールなんてものはないので、検索中に見つけた面白そうなことは、どんどんやりたいこととして追記していく。想定外の楽しそうなことが目の前に転がっていたら、即座に手を伸ばして掴んでいくべきであり、それは実際の旅行中であっても重要なことだ。
 

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(リストアップした事柄を、場所に紐付けていく。上位概念に括っていく作業。)
 
 
 

■Step3:やりたいことをマッピングしていく

 この段階で、やりたいことのできる場所の位置関係を把握する。Step2で調べた、地名や観光地の名称、行きたいお店をどんどんGoogleマップのマイマップを使ってマッピングしていく。マイマップは本当に重宝するサービスで、単語を入力してピンを刺していくだけで旅行イメージの具現化がグワっと進む。
 

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(もはやマイマップなしには計画は立てられない?)
 
 
 

■Step4:自分の住む場所から、旅先までの交通手段を調べる

 そろそろ現地までの交通手段を抑えておきましょう。と言っても、僕は特殊なことはやっていない。移動手段をちょろっと調べてみて、値段と時間とにらめっこをする。誰もがやっているフツーのことだと思う。
 
 ここでの持論は、コストの面から見た移動手段の決め方は、移動手段に伴う精神的・身体的なコンディションの変化込みで選択するべきということだ。深夜バスで到着して、果たして一日を全力で楽しめるのか。プラス1万円で快適な時間と素敵な一日が得られるなら、それって高いのかな。当たり前のことだけど、そこを考えて判断するべきだ。なんでもかんでも金額で判断するというのは通貨の奴隷でしかなく、お金という幻想に捕らわれすぎていると思う。必要以上にお金に拘ると、旅は楽しめなくなる(人生もね!)。世俗的な旅なんて最悪ですよ。
 
 ちなみに、海外に行くときの航空券の取り方も、スカイスキャナーで検索するという捻りのない方法を使っている。航空券の値段は本当に刻一刻と変わるが、ここでのポイントは、プライスの上下に関してあまり粘りすぎないということだ。航空券の価格変動がどういう力学で起こるのかに明るくないというのもあるが、ウダウダ粘って毎日スカイスキャナーとにらめっこするよりも、計画を前進させて他のことに時間を使うほうが、数万円の差よりもプライオリティが上ではないか。腹をくくってサクっと決めちゃいましょう。行くという気持ちは決まっているのだから、決断は早ければ早いほどいい。
 
 
 

■Step5:点と線を結ぶ

 いよいよ計画も大詰め。Step3でマッピングした点たちに線を与える。その際、線が描きやすそうなところにある点を選ぶのは間違っている。行きたい点を選んで、それらを線で結びつけるのだ。回りくどい表現をしたが、要は、交通手段を調べてそこからルートを考えるという、交通手段あり気の旅は僕の主義に反する。自分の行きたいところを、譲れない順に最大限周れるよう、能動的に道を設定していくのだ。交通手段の奴隷になってしまったら、いままでの工程が全部パーだ。自由な旅なんだから、やりたいことは何よりも優先されるべき。この点と点を取りたいんだけど、ここを結んでいる線はないかな?という姿勢で臨む。そして、そこに線がないのなら、作ればいい。多少コストを要してもタクシーをチャーターするとか、やり口はいろいろある。やりたいことは全部やる。そこは欲張る。(と同時に、どうしても無理なことは、縁がなかったと瞬時に手放すしなやかさも大事である。)
 
 何度も言うが、Life is Journeyだ。何ができそうかで選ぶのではなく、何をしたいかで決めるべきだ。なぜなら、何かをしたいという欲望だけは、他人にはどうすることのできない自分オリジンのものであって、もっとも尊いものだからである。僕はそう信じている。
 
 
 

■Step6:宿を決める

 バックパッカーの中には、現地で足を使って宿泊先を見つけるっていう人が結構いるけど、僕は予約していく派。物事には適度なルールが必要だ。なんでも自由気ままが一番だって思っていた時期もあったけど、ある程度の秩序を設けたほうが精神衛生的に健康になれる。僕にとってはそれが寝床(もっと言うと綺麗な水場)なので、きちんと予約してからいく。この日はココに泊まる、という最低限のルールが旅に秩序を与える。(あと、やっぱり安心だ!)
 
 基本的に使うのはBooking.com。これは意外なTipsかと思うけど、国内旅行の予約にもBooking.comを使うのがおすすめ。理由は、日本国内でBooking.comを利用するような感度の高いオーナーがいる宿は気持ちがいいことが多いから。海外の観光客を相手にしているので接客や設備がミニマルで程よいし、話すと魅力的なオーナーであることが経験上多いのだ。これは、まだ宿泊先を観光の一環にできるほどの経済的余裕がないからというのも多分にあるが、安くて気持ちの良い宿をお探しの方はぜひ試してみて欲しい。
 
*Booking.com経由で僕が利用した宿の一例をご紹介

compass-kyoto.jp(京都のゲストハウス・コンパスさん。元CAの女将さんがご夫婦で経営されている。外国人のツボを抑えた和風の内装はとってもキュートで、日本人だってテンションが上がることウケアイ。僕が祇園で飲んでて帰りが遅くなったら心配して電話をくれたり、ママさんの優しい人柄が宿のいたるところに溢れている。)

 

shirakawa-go.jp(白川郷の古民家改装ホステル。もともと観光案内をしていたオーナー、要望を聞いていたら気が付くとホステルを運営していたという。留学未経験ながら、世界遺産白川郷仕込みの英語はめちゃめちゃ流暢。生き方がヒップホップ過ぎて最高にクールな女性だ。キッチンを貸し出してくれるので、夜は仲間たちと飛騨牛を焼いて最高に盛り上がった。)

 
 
 

■Step7 :全力で準備してきたことを、全力で忘れる

 いよいよ本番。実際に旅に出るときの心構えを最後に贈ろう。大まかな計画は頭に残して、その他はなるべく忘れてしまうことだ。
 
 これは何事にも当てはまることだが、本当に必要なことは、意識していなくてもポロっと発揮されるものだ。無意識的に出てくるエッセンシャルな選択の引出しを増やすために、準備や計画をすると言ってもいい。あなたはこれまでの過程で十分計画をしたはずだ。だから、あとは細かい計画なんか忘れ去って、目の前を全力で楽しもう。ノーモアルールズ。臨機応変に計画は変えるし、自分のスウィートスポットを見つけたのならそこにもっと時間を注ぎ込めばいい。想定外を楽しむことこそ旅の本質だ。わかりきっていることなんかに価値はない。決して計画の奴隷になんてなってはいけないのである
 
 
 

■最後に

 書き始めたときは、How to調にサクっと書くことを意図していた。しかし、終わってみれば精神論や持論ばかりを書き連ねていて、正直自分でもかなり驚いている。ぜんっぜん、旅行『技法』じゃない笑。改めて、旅行計画における選択は、自分の価値観を反映するものだなとつくづく感じている。自分が何にプライオリティを置くのか、その選択の連続の末に旅がある。だからこそ旅が人生だと言われるのだと思う。そう、最初から旅にHow toなんて存在しなかったのだ。人生と同じように。
 
 賛否両論あるとは思うけど、僕に言わせれば、ツアー旅行を選んだ段階でゲームオーバー。それは他人の人生を生きるという選択肢だ。願わくば、こんな隅っこまで読んでくださった優しい方々のご旅行が、少しでもその人らしいものになってくれたらなと思う次第である。さあ、次の旅を夢想しよう(考えるのはタダですしね!)。

はじめに

◼︎きっかけ

 『ライフスタイルは買えるのか』

 このことを考えるに至った契機として、月並みではあるが映画<365日のシンプルライフ>との出会いがある。

(モノとの距離を確かめる実験を追う、ドキュメンタリー映画。主人公 は、全ての持ち物を倉庫に預け、そこから1日1つだけ物を取り出すことができるというルールの下、暮らし始める。経験することで初めて分かる、モノがもら たす利便性から感情の変化に至るまで、映像の質感も相まって、非常にリアルに届けてくれる作品。)

 

 最も印象に残っているのは、主人公の祖父母の台詞。

 

 

「人生はモノでできていない。」

 

 自分を顧みたとき、極端に言うと、モノに生活をジャックされていた。僕はモノが大好きだった。受動/能動を問わず、生活に侵入してくるモノの情報。「いまがお買い得ですよ!」「1点もののヴィンテージです!」時に、それらを手にいれることが生活の中心になったりしていた。

 

 単純に、「モノ」を「情報」に置き換えても成り立つかもしれない。あらゆる側面でトゥーマッチな現代では、気づかぬ間にノイズに生活を乗っ取られていることは往々にしてある。モノも情報も大事だけど、人生の構成要素として最上位にくるものではない。

 

 

 

 

◼︎モノの先にあるもの

 物と生活の関係を考えるとき、いまや多くの人が知るようになった『ライフスタイルショップ』というワードが思い浮かぶ。

 生活にまつわる物をチョイスするのは、個々人のアティチュードの現れであるから、ライフスタイルショップというのはある部分で成立しうる。究極的に、お金の使い道もアティチュードである。

 

 でも、ライフスタイルってそんなに即物的じゃない。

 

 そのモノを手にとったアティチュード、例えばエコだとかロハスだとかフェアトレードだとかの意識を、生活の隅々まで行き渡らせることができるかは、個々人の人間性に左右される。

 

 こういった精神的なものは、言葉になった瞬間からどうしても記号に傾倒してしまう運命にある。つまり、学問と違って、概念の獲得だけでは何も変わらないのだ。

 

 単に知識だけインストールすれば即ゴールとなるものではない。映画マトリックスの主人公が、ディスクをロードするだけで次々と武術を獲得するシーンには憧れ を抱いたものだが、あれはあくまでもフェアリーテイルであって、現実には日々の鍛錬でしか武道を極めることはできない。

 
 
(マトリックスの世界では一瞬にしてこんなことができるようになってしまうのだ。)

 

 学問以外は、継続を伴った、いわばベクトル量としての側面が必ずつきまとう。矢印がどこまで伸びるかは、それに関わるモノの如何によって決まるものではない。

 

 

◼︎ライフスタイルの構成要素

 ライフスタイルを考える上で、”ベクトル量である”ことの他に浮上する問題がある。それは、個人の意志だけではなく、自分ではどうしようもできない側面にも、ライフスタイルがかなり脚を突っ込んでいることである。それらは絶対にお金では買えない。

 

 思うに、ライフスタイルを構成する要素は3つあって、それぞれにランクがある。

 Level1は、”1日の過ごし方”
 Level2は、”人間関係”
 Level3は、”住んでいる場所”

*大前研一氏の提唱する、有名な「人間が変わる3つの方法」とほぼ一緒なんだけど、日常の構成が人となりを作るというシンプルな部分で通じているんだと僕は考えている。

 

 これらは、レベルが上がるに従って、外部要因への依存度が大きくなる。

 

 ”1日の過ごし方”、これは生活を構成する最もプリミティブな部分であることに異論はないかと思う。

 

 このレベルでは、自分の選択で変えられる余地が大きい。例えば選ぶモノによって、QOLを向上させることができるだろう。また、「朝型生活を送ろう」と思ったら、あとは自分の意志の問題だ。プロセスの多くは自分一人で完結する。それが口で言うほど簡単ではないのは、前述のベクトル性があるからではあるが。

 

 対して、Level2やLevel3は、自分一人ではどうにもならないことが多い。人は、人の間に身を置くから「人間」なのであって、日々顔を会わせる人から、望もうが望むまいが大きく影響を受けている。住む場所だってそうだ。海辺の生活と高架下の生活、標高3000 mの生活はどれも違うものだろう。

 

 そして、この2つは、多くの場合自分で選べない。正確には、選べない生き方が社会通念になっている。

 

 自分と気の合う人と出会って、さらに良好な友人関係を構築できるかは、出会いのn数を上げたとしてもコントロールすることができない。住む場所に関しても、やはり仕事場に帰属して考えることが一般的だろう。多くの人は住む場所をライフスタイル本位で選ぶことができない。

 

 

 

◼︎ライフスタイルは買えるのか

 だから、『ライフスタイルは買えるのか』の答えは、当然ではあるが、ノーである。『買う』ということが ”モノを手に入れる”という一般的な範疇にある限り、ライフスタイルは買うことができない。

 

 ライフスタイルを冠するショップやマガジンの提案する暮らしは素晴らしいし、憧れるところだろう。だけど、ああいった提案をリアルな生活に落とし込み、獲得できる人はどれほどいるのだろうか。現代社会で暮らす限り、ああいった生活を描くことはほぼ不可能だ。また、身も蓋もないことを言えば、あの価格帯のものをポンポン生活に取り入れることはなかなかできないと思う。あくまで”休日のアトラクション”にすぎず、現実との乖離は大きい。

 

 

 

◼︎僕のトライアル  ー理想のライフスタイルに近づくためにー

 きっと<クウネル>や<&Premium>を作ってる人たちだって、雑誌の世界観の中で生きてなんていないと思う。日本の都市に住んでいる限り、<KINFOLK>のような暮らしを成り立たせることは想像できないし、別の世界を眺めている気分になってしまう。

 

 雑誌はフィクション、実店舗さえもアンリアル。じゃあリアルはどこにあるんだよ、と。だから、背伸びをせずに、「こんなことしてみたり、考えたりしたんだけど、気分よかったよ」っていうものを配布していきたい。素人の手が届く範囲を武器に。

 

 目指すのは『ライフスタイルのおすそ分け』。『買う』の反対の『売る』じゃなくて、『おすそ分け』。いや、それすらちょっと押し付けがましいかな。『ご自由にお取りください』がいい具合か。

 

 着地点は見えないし、どう進んでいくのか自分でもわからない。Level 2や3をどうしたら変えていけるかも検討がついていない。でも、わからないからこそいまはとても楽しみである。

 

 いろいろと上でライフスタイルというものを因数分解してみたりしたが、ステキな人に囲まれて、美しいものや美味しいものが一つでも多く自分の人生の一部になっていけば、それが一番だし、すべてだ。

 

 頭でウダウダ考えることじゃない。気持ちがいいかどうか、イケてるかどうか。テイクイットイージー。

 よろしければ、どうぞお付き合いください。