ライフスタイルは買えるのか

ライフスタイル研究家。アマチュア旅人。日々が豊かになるマインドセットやチップスをポストしていきます。

禅とモードとアドラーと宇多田ヒカル

◼︎見えている世界とマインドセット

 自分が見ている世界は、他の誰でもない自分が作り出しているものである。同じ現象が起きたとしても、捉え方は人それぞれ違う。現象を受け止めて、どのように処理するかは個人のフィルター次第だ。
 
 と、至極当たり前のことを書いてみた。さて、だったら幸せな人の考え方を自分のものとして取り込んでいったほうが間違いなく良いライフスタイルに近づけるんじゃないだろうか、僕が理想に据えるマインドはどんなものか、というのが本日のエントリー内容である。
 
 世の中には、まるで別次元で物事を捉えている人がいる。彼らと僕の違いは何か。事象を処理する個々人のフィルターは、きっと今までの人生で気付かずに創られてきたもので、多くは幼少期の家族のやり方がベースなんじゃないかと思う。彼らとはそういった当たり前の前提が大きく違うのだ。よりゴキゲンに生きるために、自分のデフォルトを書き換えていく必要がある。
 
 そうしたデフォルトの変更パッチは、外で『買える』ものじゃないけど(そう思い込んでるイマイチな人々が自己啓発本のコーナーを潤わせているのだ!)、きっかけをくれるものはたくさん転がっている。それをそのまま正解としてマネするのではなく、あくまで内的な処理を経て自分のマインドセットに組み込んでいくことが大切だと思う。
 
 
 

◼︎真理のオーバーラップ

 物事の真理というものは、それがまがいものかどうか見極めるのが非常に難しいものの一つであるが、判断の切り口として「より多くの場所で目にすることかどうか」が確実だと僕は思う。
 
 太古の地球では、分断され交流もなかったはずの世界各地で、同時多発的に文明が誕生した。考えてみるとなかなか不思議なことではあるが、人類が生きていると、生活の知恵を体系化していく運びになることが自然なのだろう。そう考えると、人類は皆本質的にクリエイティブだということが真理として浮かび上がる(ちょっと話は逸れるが、アウストラロピテクスだけが幸せについて考えることができたため生存できたという研究報告もあるらしい!)。こうした同時多発的な事象は、数を担保として、最も真理に近いと判断できる。誤解を恐れずに言えば、真理とされるものの見方とは、様々な思考や哲学にオーバーラップしている思考体系や事象のことである。
 
 
 

◼︎西洋のアドラーと東洋の禅

 2015年のベストセラーに<嫌われる勇気>という本がある。本書は、そのタイトルからは少々分かりにくいが、アドラーというオーストリアの心理学者の思想について書かれたものである。現代社会には目眩ましが多いせいで視点として失いがちだけど、人間が本来生きていく中で追求すべきことー”どうすれば幸福になれるのか”ーに対する考察を、対話形式で深化していく。  

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

 もう一冊、我々日本人により馴染みの深い思想として、禅の本を紹介しよう。

 

禅マインド ビギナーズ・マインド (サンガ新書)

禅マインド ビギナーズ・マインド (サンガ新書)

 

 

米国で禅を説いた日本人・鈴木俊隆老師の説法をまとめた一冊。原書は英文で書かれ、逆輸入的に日本に入ってきた書籍である。故スティーブジョブズの愛読書として有名で、Amazonの商品説明ではこの点を推しすぎじゃないかと思う(青春時代にジョブズが貪り読んだ!って笑)。そんな世間に媚びた売り方をする必要は全くないと思えるぐらい、禅の入門書として素晴らしい内容の一冊である。
 
 この2冊を見比べて、個人的に多くの共通点を感じることができた。双方より数カ所引用させていただき、そこにオーバーラップする真理を浮き彫りにしてみたいと思う。以下は、各書籍からの引用であり、対になるように抜き出している。
 
<禅マインドビギナーズマインド>
一番大事なのは、今、ここであって、いつか来る未来の一日ではないのです。私たちは、今、ここに努力を払います。修行においては、このことが一番大切なのです。【p.202】
真剣に、そして一瞬一瞬にベストをつくせば、それで十分です。私たちの修行のほかには、涅槃(ニルヴァーナ)はありません。【p.87】

 

<嫌われる勇気>
線のように映る生は点の連続であり、すなわち人生とは、連続する刹那なのです。(中略)我々の生とは、刹那のなかにしか存在しないのです。【p.265】
人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないことです。【p.275】
 
 
<禅マインドビギナーズマインド>
禅の修行で一番大事なことは、「二つ」にならない、ということなのです。(中略)いろいろなことを分け隔てすると、あなたは自分で自分の限界をつくってしまいます。【p.32】
座禅の姿勢についてお話します。(中略)足を組むと、二本の足があっても、右足と左足が一つになります。この姿勢は、二つではない、一つでもない、という「二元」性の「一者」性を表しています。(中略)私たちの心と身体は、二つでありながら一つ、なのです。【p.38】
 
<嫌われる勇気>
アドラーの名付けた「個人心理学」(中略)のことを英語では、「individual psychology」といいます。(中略)要するに、これ以上分けられない最小単位だということです。アドラーは、精神と身体を分けて考えること、理性と感情を分けて考えること、そして意識を無意識を分けて考えることなど、あらゆる二元論的価値観に反対しました。(中略)心と身体は一体のものだ、これ以上分割することのできないひとつの「全体」なのだ、と考えるわけです。【p.175-176】
 
 
<禅マインドビギナーズマインド>
二元的な考えを捨ててしまうと、すべてがあなたの師となり、すべてが尊敬の対象になるのです。(中略)ときには師は弟子に対して礼をし、弟子は師に対して礼をします。弟子に対して礼をしない師は、ブッダに対してもできません。(中略)大いなる心の中では、一切が平等です。【p.81-82】
 
<嫌われる勇気>
他者との間に違いがあることは積極的に認めましょう。しかし、われわれは「同じではないけれど対等」なのいです。【p.92】
人間は自らのライフスタイルを臨機応変に使い分けられるほど器用な存在ではありません。要は「この人とは対等に」「こっちの人とは上下関係で」とはならないのです。(中略)もしあなたが誰かひとりでも縦の関係を築いているとしたら、あなたは自分でも気づかないうちに、あらゆる対人関係を「縦」で捉えているのです。【p.214】
 
 
<禅マインドビギナーズマインド>
仏教では、この世界の外になにかを期待するのは、異端の見方です。自分自身の外に、何かを探し求めようとはしないのです。【p.208】
 
<嫌われる勇気>
答えとは、誰かに教えてもらうものではなく、自らの手で導き出していくべきものです。他者から与えられた答えはしょせん対処療法にすぎず、なんの価値もありません。【p.40】
 
 いかがでしょうか。根底に通ずる点を感じていただけたかと思う。この二つの思想にオーバーラップするものは、人間の心の在り方の理想の一つではないでしょうか。
 
 
 

◼︎宇多田ヒカル

 真理のオーバーラップというところでは、僕は宇多田ヒカルに禅的なものを強く感じている。彼女の語録を、いくつか引いてみたいと思う。
 
■9歳の時、怒りとか不満といった感情が完全になくなっていることに気づいた。外界になにも求めなくなっていた。(私の求める救済はそこにはないんじゃないかな・・・。)(中略)自分の内側の世界のほうが大事だった。そこには自由があった。想像と思考は無限で、最強だと思った。
宇多田ヒカル 点 -ten- p.7-8】
 
どこか遠くへ 逃げたら楽になるのかな そんなわけ無いよね どこにいたって 私は私なんだから
【Wait & See 〜リスク〜(2001) のリリックより】
 
いつも、全部でありたい、と思って生きてきた。(中略)全部でありたい、という気持ちは、「自分を定義する」ことの逆なのかもしれない。「私は女だ、東京に住んでいる、若者だ、これが好きだ、あれが嫌いだ、こうされたい、これは怖い」といった自己定義は、ただ自己を制約するものを羅列するだけのように思える。(中略)すでに自分はこの世界の一部なのだから、万物と共感、融合することは、決して自己の喪失ではない。
宇多田ヒカル 点 -ten- p.22-23】
 
ファンクラブがないこと。なぜかというと”私のファン”として固定ファンになってもらうことを望んでないんですね。今、好きでいてもらっても、これから私のやる音楽は変わるかもしれない。「絶対好きでいて!」とかじゃなく、それぞれが今回の曲は好きとか、今回の曲はそうでもないとか、確認してもらうほうがいい。
oricon style (2007年7月30日号)の特集「音楽ファン2万人に聞いた好きなアーティストランキング」より】
 
極めつけは、自著の帯にあるこの言葉。
 

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 10代にしてあらゆる体験を怒涛のように経験してしまった彼女自身が、ある種の探求者だからであろうか。その境地には禅が映る。
 
 さて、禅のオーバーラップを挙げていくとここのスペースでは終わらないので、(なんで数ある例から宇多田ヒカルを取り上げたのかって、祝ヒッキー活動再開!)、禅の話に立ち返りたいと思う。

 

点―ten―

点―ten―

 

 

 
 

◼︎モードの定義とクールなマインド

 僕は禅に心惹かれている。思うに、すべての自己啓発本は禅の演繹と言えるのではないだろうか。これほどまでに体系化された思考が大昔に生まれ、現代でも通用するというのは驚くべきことだ。まだまだワナビーだけど、僕のマインドセットの中心は禅である。
 
 禅が肯定する「変わり続けること」。これを人生の指標にしたいのだけど、これをもっと言い得た言葉がある。「モード」という言葉だ。
 
 多くの人は、モードという言葉に関して、ファッションの用語だろうな程度の認識だと思う。僕も正確な語義を知らぬ間に使っていた(なんとなく黒くて、抽象的で特異的なものを指すファッションのジャンル?みたいな)。ある一冊の本を読んだとき、そこでなされている定義が新鮮だったので、ご紹介しよう。

 

ちぐはぐな身体―ファッションって何? (ちくま文庫)

ちぐはぐな身体―ファッションって何? (ちくま文庫)

 

 

 思想家ロラン・バルトの著書からの引用によると、『「モード」とは無秩序に変えられるためにある秩序』であるとし、みずからせっかく豪奢につくり上げた意味を裏切ることを唯一の目的とする意味体系』という”贅沢な逆説”のたくらみと表現されている。
 
 つまり、「モード」とは、テキストになった瞬間に滅ぶワードなのである。”モード”と表現された瞬間、それは世間一般のモードという記号認識の中に取り込まれた”非モード”と化す。よくファッションの表現に用いられるモード”っぽさ”という風味の演出は、その出発点からして既に形骸で、本質的ではないのだ
 
 通念を飛び抜けたコンテンポラリーな空間、そこだけが本質的に「モード」たり得るのである。著者の表現を借りると、”モードという制度の中で、どのモードよりも速くモードを変換し、どのモードよりも速くそれを突き抜けること”、これは刹那を生きる禅の精神そのものだ。
 
 
 

■最後に

 僕は、各人が自分が良いと思ったことをリミックスした、”自分の宗教”みたいなものを持って生きることはとてもいいことだと思う。そんな思いもあり、最近影響を受けたものをつらつら並べる形でご紹介してみました。読みにくさや学術的な誤りはご愛嬌というところでご容赦いただければと思う。(なんてったってこれは僕の宗教だから、反証可能性はなくてもいいのだ!笑)
 
 誰かに人生を奪われないために、自分の意思で選び取り勇気をもって変わり続ける。逆説的であるが、変わり続けることで、いつも変わらずに”いまここの自分”を獲得し発信し続ける。自分の中のエッジに立ち続けるモードな生活、デフォルトを更新し続ける生活、いっしょに追い求めていきませんか?